『テセウスの船』タイトルの意味とは?パラドックスと作品の関係を考察!

日曜劇場『テセウスの船』

TBS日曜劇場『テセウスの船』。今期大注目のドラマであり、第7話の放送を終えた現在でも好視聴率をキープしています。

31年前に起きた無差別毒殺事件の真犯人を追うため、主人公が過去へとタイムスリップする物語で、予想がつかないサスペンスの展開が魅力のひとつです。

そんな作品を読み解く上で気になるのが、この「テセウスの船」というタイトル。第1話の冒頭ナレーションでも説明されていましたが、イマイチ掴めなかった人もいるのではないでしょうか。

今回は古代ギリシアのパラドックス「テセウスの船」の意味と、ドラマとの関係について考察します。

「テセウスの船のパラドックス」とは?

ドラマ『テセウスの船』の冒頭では、次のように説明されています。

ギリシア神話に、テセウスの船というエピソードがある。戦に勝利した英雄テセウスの船を後世に残すため、朽ちた木材は次々と交換され、やがてすべての部品が新しいものに取り換えられた。さて、ここで矛盾が生じる。この船は最初の船と同じといえるのだろうか?

船の一部分だけを交換するなら、それは依然として「英雄テセウスの船」でしょう。

しかし、そうやって少しずつ補修作業が進められていき、ついにすべての部品がそっくり入れ替えられてしまったら……?

その時、私たちはそれを「英雄テセウスの船」と呼べるのかどうか、という矛盾(パラドックス)が生まれることになります。

たとえば最近では、90年代に一世を風靡した音楽グループ「WANDS」の再結成が発表されました。

ネット上ではWANDSが戻ってきたことに歓喜の声が挙がる一方、ボーカルが全盛期のメンバーではないことに違和感を覚えた人もいるようです。

音楽グループには脱退や加入が当たり前。初期メンバーとは完全に入れ替わってしまう場合だって往々にしてあります。

もしも新生WANDSが新曲を発表したとして、それが他ならぬWANDSの曲であることを示す根拠は何でしょうか?

このようにして、テセウスの船のパラドックスというのは、事物が同じである根拠、つまり同一性(アイデンティティ)に揺さぶりをかける問題なのです。

「テセウスの船のパラドックス」とドラマの関係は?

田村心の同一性

ここでドラマの内容に立ち戻って考えてみます。「英雄テセウスの船」(あるいは「WANDS」)に相当するのが、主人公・田村心であることは想像に難しくありません。

過去に戻った心は音臼小事件を回避するため、そして真犯人を見つけ父の無実を証明するために奔走します。しかし、それは彼自身の運命を変えることを意味していました。

第4話で現代へと戻ってきた心は、妻となるはずだった由紀が別の人生を歩んでおり、母と兄が心中をしている事実に衝撃を受けます。

つまり心は「心」という名前を持ちながらも、その過去や人間関係は変わってしまっているのです。

英雄テセウスの船の部品が交換されていくように、彼の中身は別のものになっていきます。

自身の同一性をめぐって矛盾が生じていることに、心は激しく動揺するのです。

由紀の同一性

さらにドラマ版の特徴として、原作以上に心と由紀との関係がフィーチャーされていることが挙げられます。

具体的に言えば、第4話以降の現代パートでは心と由紀とのロマンスが再び展開されるのです。

その世界での由紀は新聞記者になっており、心とは直接の面識もありません。

しかし、二人は音臼小の事件を追っていく過程で親密になり、最後には愛の告白に近い形で互いの思いを伝えます。

つまり、心の同一性に揺さぶりがかけられているように、由紀の同一性にも揺さぶりがかけられていることになります。

ドラマ版ではそのことが感動的なロマンスを通して強調されているのです。

同一性とは何なのか?

ドラマ『テセウスの船』における二つの同一性について考えてきました。

結局のところ、心を心たらしめているのは何なのでしょうか? 由紀を由紀たらしめているのは何なのでしょうか?

心の場合について言えば、その同一性の担保となるのは父・文吾との関係です。

真犯人を除けば、彼だけが心の正体を知っています。

たとえ世界が改変されても、文吾との関係において心は心であり続けることができる。彼の息子であり続けることができるのです。

このような親子関係の特権とは、けだし「命名」でしょう。名づけることで、事物の同一性が与えられます。

名づけた人間が信じている限り、その人間にとって事物は同じものであり続けます。

「WANDS」というグループ名をつけたプロデューサーが生きている限り、そして信じている限り、「新生WANDS」は彼を根拠として「WANDS」であり続けることができるのです。

由紀の場合について言えば、同一性の担保となるのは愛という行為それ自体です。

そもそも愛とは無根拠のものです。人が人を好きになる理由など、本質的にはどこにもありません。

それは「〇〇があって△△になる」といった因果論とは一線を画する行為です。

けれども、この無根拠であるということが、ひるがえって同一性の根拠となります。

そもそも「新生WANDS」が「WANDS」であることに理由が必要でしょうか?

現に多くのファンは再結成したグループを「WANDS」として愛しています。

そうやって信じているファンがいる限り、たとえ100年後に何者かが「WANDS」を名乗ったとしても、それは「WANDS」であるに違いありません。

『テセウスの船』というドラマがどのような着地点を見出すのか、まだ定かではありませんが、それは往年の音楽グループが再結成するように、きっと感動的なものとなるはずです。

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